Sunday, November 24, 2019

Nagi Moca



奈義町現代美術館は世界ではじめての《サイト・スペシフィック》な美術館であるという。たしかに《常設しかない》というのは良い。そのものはいつも変わらずそこにあって、変わるのは天気であり季節であり風景であり鑑賞する我々自身である。そしてそれらが組み合わさることの可能性によって、ここでの常設展はpermanent collectionと呼ばれながら、それらが絶えず移り変わるものでもありうることを意識させる。ここにいると、作品とは本来的にその「もの」ではなく、一連の体験そのものに向けられているのだろうと思えてくる──だからこそ、ここで見る宮脇愛子の≪うつろひ-a moment of movement≫はとりわけ素晴らしい。それはホックニーのsplashのように、ほんの短いストローク一つで、たちまち瞬間を閉じ込めてしまう。
それから美術館の隣の図書館も、机の正面に切り取られた窓から山山を望めるのがとても良かった。その意味でサイト・スペシフィックな建物を建てることは、同時に周りの環境をある種《固定》させることでもあるかもしれないと考える。ビルの建設は、それを意識させる窓の存在によってのみ止められることもあるのかもしれない。たとえば京都の円通寺のように。


Nagi MOCA, Arata Isozaki, 1994

Nagi Museum of Contemporary Art is said to be the first “site-specific” museum in the world*. Visiting there, it's so convincing that there is only permanent installation. It is always there, and what changes is the weather, the season, the landscape, or above all, ourselves. And with the infinite possibilities of combining them, the permanent collection here, at the same time, makes you aware that they can be transient or something changing. Here, the exhibited work is not inherently a “thing”, but rather a series of experiences. That is why Aiko Miyawaki's “Utsurohi-a moment of movement is especially stunning. Just like David Hockney's splash on his swimming pool, it's nothing but a short stroke that instantly captures the moment. 

The library next to the museum is also designed great to see the mountains from the windows cut out in front of the desk. In that sense, a building designed as site-specific may also be “fixing” the surrounding environment in some manner. The construction of the building may be reconsidered only by the presence of windows that make it aware, just like a renowned Entsuji Temple in Kyoto. 

*https://www.okayama-u.ac.jp/user/kouhou/ebulletin/topics/vol18/travelogue.html


Saturday, June 15, 2019

Some notes for John Updike “Towards Evening”


“Above its winking, the small cities had disappeared. The black of the river was as wide as that of the sky. Reflections sunk in it existed dimly, minutely wrinkled, below the surface. The Spry sign occupied the night with no company beyond the also uncreated but illegible stars.” - John Updike, Toward Evening (1955)

「明滅するネオンの上にある小さな町は、もう見えなくなっていた。河の暗さは、空の暗さと同じように広がっていた。うつっているネオンの影は、こまかい皺を作って、水面の下に沈んでかすかに見えた。スプライのネオンは夜を独りじめにしていた。これも空と同じで人間が作ったものではないが、やっと目に見える程度に輝いている星をのぞいて、仲間はどこにも見えなかった。」—ジョン・アップダイク 「黄昏どき」(1955)

最後のこの部分、和訳では

「これも空と同じで人間が作ったものではないが、やっと目に見える程度に輝いている星をのぞいて、仲間はどこにも見えなかった。」

となっているが、

「“Spry”のネオンは夜を独りじめにしていた。人は誰も見えなかった。ただ星が—これも人が創造したものではない—が、かろうじて目に見える程度に輝いていた」

とした方がわかりやすいんじゃないかと思う。uncreatedという単語は単純に「作る」というより神による創造というニュアンスがあるようで、従ってuncreatedはExisting of itself、eternalという意味になるらしい。

アップダイクはもともと宗教的な作家だったそうで、ここではおそらく「Spry」(1950年代ケーキなどに使われていた植物油脂のブランド名)のネオン・サインの輝きといういわゆるアメリカらしい人工的・工業的なモチーフに対して、永遠の存在の象徴としての星が「やっと目に見える」程度に輝いている(ほとんど見えない)、というふうに対比させられているのじゃないかと思う。「also」というのが何に対してなのかがはっきりわからないけれど。

この短編はただ主人公がニューヨークから車中人間観察をしつつバスに乗って夕方家に帰ってきて、窓の外の遠くのネオンサインを見ながらそれが取り付けられるようになった過程をぼんやり夢想しているうちにやがて夜が来る(Towards Evening)、という本当にただそれだけの小説。

けれども、この最後の「食事がすんで、レイフが煙草を吸っていると、ハドソン河からその向うの、頂上に村らしいものがいくつかあるパリセイズにかけての風景が見えた。紫色の空が黄色い空の上に低くたれこめていた。スプライのネオン・サインが輝いていた。」という段落以降、ハドソン河の対岸の小さな街並みの間に見えるネオン・サインの明滅からふと主人公の意識が宙に浮いて、気づけば夜が更けて夜空と暗い河の水面にゆらめくネオンだけが見える、という時間的経過がそこに閉じ込められているところが本当にいつ読んでも素晴らしい。
最近読んだ志賀直哉の短編でもそう思ったけれど、ストーリーの本筋とは別に、最後にただ一つの《情景》がそこにある、そのような小説がやはり好きだなと思う。