Saturday, June 15, 2019

Some notes for John Updike “Towards Evening”


“Above its winking, the small cities had disappeared. The black of the river was as wide as that of the sky. Reflections sunk in it existed dimly, minutely wrinkled, below the surface. The Spry sign occupied the night with no company beyond the also uncreated but illegible stars.” - John Updike, Toward Evening (1955)

「明滅するネオンの上にある小さな町は、もう見えなくなっていた。河の暗さは、空の暗さと同じように広がっていた。うつっているネオンの影は、こまかい皺を作って、水面の下に沈んでかすかに見えた。スプライのネオンは夜を独りじめにしていた。これも空と同じで人間が作ったものではないが、やっと目に見える程度に輝いている星をのぞいて、仲間はどこにも見えなかった。」—ジョン・アップダイク 「黄昏どき」(1955)

最後のこの部分、和訳では

「これも空と同じで人間が作ったものではないが、やっと目に見える程度に輝いている星をのぞいて、仲間はどこにも見えなかった。」

となっているが、

「“Spry”のネオンは夜を独りじめにしていた。人は誰も見えなかった。ただ星が—これも人が創造したものではない—が、かろうじて目に見える程度に輝いていた」

とした方がわかりやすいんじゃないかと思う。uncreatedという単語は単純に「作る」というより神による創造というニュアンスがあるようで、従ってuncreatedはExisting of itself、eternalという意味になるらしい。

アップダイクはもともと宗教的な作家だったそうで、ここではおそらく「Spry」(1950年代ケーキなどに使われていた植物油脂のブランド名)のネオン・サインの輝きといういわゆるアメリカらしい人工的・工業的なモチーフに対して、永遠の存在の象徴としての星が「やっと目に見える」程度に輝いている(ほとんど見えない)、というふうに対比させられているのじゃないかと思う。「also」というのが何に対してなのかがはっきりわからないけれど。

この短編はただ主人公がニューヨークから車中人間観察をしつつバスに乗って夕方家に帰ってきて、窓の外の遠くのネオンサインを見ながらそれが取り付けられるようになった過程をぼんやり夢想しているうちにやがて夜が来る(Towards Evening)、という本当にただそれだけの小説。

けれども、この最後の「食事がすんで、レイフが煙草を吸っていると、ハドソン河からその向うの、頂上に村らしいものがいくつかあるパリセイズにかけての風景が見えた。紫色の空が黄色い空の上に低くたれこめていた。スプライのネオン・サインが輝いていた。」という段落以降、ハドソン河の対岸の小さな街並みの間に見えるネオン・サインの明滅からふと主人公の意識が宙に浮いて、気づけば夜が更けて夜空と暗い河の水面にゆらめくネオンだけが見える、という時間的経過がそこに閉じ込められているところが本当にいつ読んでも素晴らしい。
最近読んだ志賀直哉の短編でもそう思ったけれど、ストーリーの本筋とは別に、最後にただ一つの《情景》がそこにある、そのような小説がやはり好きだなと思う。

Tuesday, November 27, 2018

memorandom for Richard Misrach


「人間にとっての自然と技術(人工)は、なかなか分割しきれるものでもない。植林というどこかの誰かがつくった風景も、出会い方によっては、かけがえのない自然になる」
──荒木優太「偶然を語る意志」(DISCO vol.2)

リチャード・ミズラックの《Desert Cantos》のレイナー・バンハム(Reyner Banham)による前文は、このようにして始まる。
"The desert that Richard Misrach presents here is the other desert. Not the pure unsullied wilderness 'Where god is and Man is not,'"...
まさにこの点に、わたしがこんなにもアメリカの風景に惹かれる理由があるのだと思う。
建築に興味があるのではなく、ある建築がある時間を経て自然の一部、つまり風景へと返される、その過程にこそ興味がある。

Sunday, November 25, 2018

memorandum for the essay found at Yamanakako


「牛腸はさらに言う。『拡散された日常の表層の背後に、時として、人間存在の不可解な影のよぎりをひきずる。その〈かげり〉は、言葉の壁にからまり、漠とした広がりの中空に堆積し、謎解きの回答留保のまま、この日常という不透明な影の中で増殖しつづける生き物のようである』と。影をひきずり、〈かげり〉を受けとめつつ『いざる』こと。『往来のきわで』いざることによって、『見慣れた』街は見慣れない街になっていく。『見慣れたひと』がいないのと同様に『見慣れた日々』なんてありえない。日常の絶え間ない反復のなかで平穏を保つには、どこかで、しずかにきしんでいく不安の影をおしとどめるほかないのだ。
──堀江敏幸 「存在の「いざり」について」(特集 写真家・牛腸茂雄)

昨年の秋にこの堀江氏の文章を山中湖の友人の別荘で見つけて、気に入ってその場で携帯で撮影し保存したのをすっかり忘れたままになっていたのを最近になってふと発見した。少し前に「寝ても覚めても」という映画を見て、なんだか分かるような分からないような映画だと思っていたところに、偶然にもこの文章がその主題を語っているように思われた。