Sunday, December 25, 2016

karuizawa ii



このあいだ目白の吉村順三ギャラリーでみつけた、
ある女子大のキャンパスの改修計画について書かれた文章のなかに出てきた
『残すことは作ること』という言葉が、ずっと頭に残っている。
残すというのは、ただ置いておく、放っておくことと同じように思われる。
でもきっと残そうとしない限り、残らないもののほうが実は多い。
そのような意味で「残す」ことは極めて能動的な行為であるようだ。
それはそこにあるものを壊して、ゼロから全く新しくつくるよりも、
もしかするとずっと大変で、創意工夫が必要なことの気がしてくる。

そう考えると、普段はあまり気づかない、
あたりまえのようにそこにあるように思われるものでも、
実は誰かの「残したい」という不断の努力の上に
かろうじてあるのかもしれない。
放っておくと物事は朽ちていく以上、
「残す」ことは、それ自体抵抗であるし、ひとつの意思でもある。
また、だからこそそれはとても人間的な行為であるようにも思われる。
(そしてきっとなくなってしまうものを写真におさめることも、
そのひとつであるとおもう。)
その意味では、実は「残す」ことは最も切実な
「つくる」行為なのかもしれないと考えた。

Saturday, December 3, 2016

Thomas Ruff's Enormous Portraits


トーマス・ルフの巨大なポートレイトを見たとき感じたのは、
胃の一瞬浮くような奇妙な恐怖感だったと思う。
それは、自分が知っていると思っていた誰かが、
実は自分の考えていた人物とは違った、というような感じに似ている。
キャプションに、ポートレートがあのサイズになったことで、
人はこれが写っている誰々であるということよりも、
それが写真、つまり画像であるということを意識するようになったとあった。
けれど、逆にわたしにはあれらのポートレートが、
それでもなお人間であることから完全に離れきっていないところに、
むしろその本質があるように思える。
あれらは画像でありながら、わたしたちはその中の人物たちを
一枚の画像の中の風景や静物だというように、
完全に対象として客観視することができない。
にもかかわらず、逆に自分の知っている誰かであるとrelateするには、
あれらはあまりにも恐ろしく巨大で、よそよそしい。
つまり、人間であることと画像であることの狭間からわたしたちを見つめている、
その視線になんともいえない居心地の悪さというか、
ある種の気まずさがあって、それに嫌でも対峙させられる。
自分の家族や友人、あるいは自分自身があのようなプリントになって並んだら
きっとこれは私あるいは私の知っている誰かではない、と否定したくなる。
けれど同時に、あれらは明瞭すぎるほど明瞭に、身も蓋もないくらい、
あまりにもわたしたち自身としてそこにいる。

ポートレート写真を見るとき、おそらく私たちは無意識のうちに、
(たとえその人物がどれだけ無表情で、何も読み取ることができなくても)
その中にうつされた人々の内面を想像し、その物語に触れている。
そのようにして、わたしたちは写真を規定し対象との関係を切り結ぶ。
でも、あの巨大な証明写真のような人物を前に、
わたしたちはそれらを規定する術を持たない。
ルフのポートレートは、見る者に、それらを客観的対象としてつきはなすことも、
逆に主体として中に入り込むことも、そのどちらもさせない。
あれらのポートレートの前に、見る者はただ宙ぶらりんの状態になる。
でもだからこそ、わたしはあのポートレートをずっと見続けてしまったような気がする。

あの室内写真のシリーズにしても同様で、
ずっと見ていると、一見よくある部屋の一角が、妙にグロテスクなものに見えてくる。
キャプションには、ルフがニューカラーを参照したとあったけれど、
わたしにはあれらはニューカラー的な写真と、
相似でありながら対照的なものに思えた。
例えばショアやエグルストンの撮影した室内写真や
あるいはホッパーの描く部屋の絵に触れるとき、
わたしたちはそれらの部屋を実際には知らないにも関わらず、
なぜかそれらの部屋を既に知っている、とありありと感覚させられる。
全く人物がいないにもかかわらず、そこにはかつてわたしたちが居たことがあるという、
確信めいた実感がある。
でもルフの室内写真からはむしろ見慣れたはずの部屋が
実はものすごく精巧につくられた別の部屋だったというような、
奇妙なよそよそしさを感じる。
うまく説明できないけれど、どれも人間がいそうでいない、妙なぎこちなさがある。

Saturday, September 24, 2016


You can never say if this is worth doing or not, all you can say is that you do it simply because you cannot help doing it. So just keep doing it and it will take you somewhere, somehow, it may take time, but it definitely will. I could not tell that to him because I was not enough confident back time. But now I want to tell him that really really badly. Throw away that little journal, it won't get criticized nor it won't move anyone, otherwise it possibly does.  


Friday, September 16, 2016

MAYBE AMERICANS




デザインをさせてもらった友人の写真集 "MAYBE AMERICANS" が
完成してほどなく、近所の古本屋で何気なく買った
リービ秀雄という作家の「アイデンティティーズ」という本を読みはじめた。

リービ秀雄という人は「純粋な」アメリカ人でありながら、
母語ではない日本語で、小説やエッセイを執筆する作家である。
彼は、自身の間借りする東京の部屋について、本の中で以下のように書く。

「ガラス戸の中の、ふすまの奥の江戸間の八畳にいることによって、
ぼく自身にも『国際化』するという逆説的な自由が与えられたのかもしれない。
『国際化』することによって、ぼくも、たくさんの屈折を経て、多少は、
日本の現代人になりえたかもしれない。よくも悪くも。

しかし、この部屋の中で、そんな『アイデンティティーの到達点』について
考えることは、実はめったにないのである。
もしかしたら、八畳の部屋自体は、そんな結論へ急ぐような
心のあわただしい動きをふさいでいるのかもしれない。
yesもなくnoもなく、無限で豊かなmaybeの誕生を、この部屋自体が
可能にしているし、そのmaybeをうながしているのかもしれない。」

アメリカ人であるリービ秀雄が東京の江戸間の八畳の部屋で感じていたこと、
わたしが友人の撮影した "MAYBE AMERICANS" の、
一連の写真をみたときに感じたこと、
それから写真集におさめられた、日本人である友人の、
英語で書かれたテキストを読んだときに感じたことは、
きっと、とても近い場所にある。

ふいに知らない誰かと道路越しに目が合うような、
それくらいさりげない一瞬の中に閉じ込められた
「かもしれない」ことの豊かさが、写真の表面に宿されている。


Sunday, September 4, 2016

some random notes about Updike


  「ジョン・アップダイクは、自分自身の知りつくしている日常生活に題材を求める作家である。(略)あるいは,日記を読むように過去を振り返ると言ってもいい。天気、外出先、訪問客、パーティ、献立、家庭内の小さな争い、疲労度……というふうに、そこには、雑多で、ありふれた記述がひしめいている。たとえば、それらのなかから、『ハンバーガーとフライド・ポテトとえんどう豆』というような、ありふれた記述に出会うとする。すると、長い時間に押しつぶされてしまって、記憶に残っていない場面がよみがえってくる。献立がひとつのきっかけになって、つぎつぎに空白は埋められ、凍っていた時間が解き放たれる。そこに一つの世界がよみがえり、短編が完成される。」

子供の頃から、どんな小説を読んでも、とるにたらないような、物語の筋とは直接関係がないような細部に惹き付けられる。部屋の窓から何が見えるか、登場人物の飲むコーヒーカップに柄はついているか、あるいはそのクローゼットが何の木材で出来ているか、 等々。 
それらは何かの伏線であってはならない、むしろそれらは直接に物語の筋に関与していないからこそ、そこに読み手への解釈の余地が生まれる。きっといつも好きな小説を説明しようとして、うまくいかないのは、自分の好む小説が本質的にそういうありようをしているからなんだろうなとアップダイクを読んでかんがえた。