Saturday, September 24, 2016


You can never say if this is worth doing or not, all you can say is that you do it simply because you cannot help doing it. So just keep doing it and it will take you somewhere, somehow, it may take time, but it definitely will. I could not tell that to him because I was not enough confident back time. But now I want to tell him that really really badly. Throw away that little journal, it won't get criticized nor it won't move anyone, otherwise it possibly does.  


Friday, September 16, 2016

MAYBE AMERICANS




デザインをさせてもらった友人の写真集 "MAYBE AMERICANS" が
完成してほどなく、近所の古本屋で何気なく買った
リービ秀雄という作家の「アイデンティティーズ」という本を読みはじめた。

リービ秀雄という人は「純粋な」アメリカ人でありながら、
母語ではない日本語で、小説やエッセイを執筆する作家である。
彼は、自身の間借りする東京の部屋について、本の中で以下のように書く。

「ガラス戸の中の、ふすまの奥の江戸間の八畳にいることによって、
ぼく自身にも『国際化』するという逆説的な自由が与えられたのかもしれない。
『国際化』することによって、ぼくも、たくさんの屈折を経て、多少は、
日本の現代人になりえたかもしれない。よくも悪くも。

しかし、この部屋の中で、そんな『アイデンティティーの到達点』について
考えることは、実はめったにないのである。
もしかしたら、八畳の部屋自体は、そんな結論へ急ぐような
心のあわただしい動きをふさいでいるのかもしれない。
yesもなくnoもなく、無限で豊かなmaybeの誕生を、この部屋自体が
可能にしているし、そのmaybeをうながしているのかもしれない。」

アメリカ人であるリービ秀雄が東京の江戸間の八畳の部屋で感じていたこと、
わたしが友人の撮影した "MAYBE AMERICANS" の、
一連の写真をみたときに感じたこと、
それから写真集におさめられた、日本人である友人の、
英語で書かれたテキストを読んだときに感じたことは、
きっと、とても近い場所にある。

ふいに知らない誰かと道路越しに目が合うような、
それくらいさりげない一瞬の中に閉じ込められた
「かもしれない」ことの豊かさが、写真の表面に宿されている。


Sunday, September 4, 2016

some random notes about Updike


  「ジョン・アップダイクは、自分自身の知りつくしている日常生活に題材を求める作家である。(略)あるいは,日記を読むように過去を振り返ると言ってもいい。天気、外出先、訪問客、パーティ、献立、家庭内の小さな争い、疲労度……というふうに、そこには、雑多で、ありふれた記述がひしめいている。たとえば、それらのなかから、『ハンバーガーとフライド・ポテトとえんどう豆』というような、ありふれた記述に出会うとする。すると、長い時間に押しつぶされてしまって、記憶に残っていない場面がよみがえってくる。献立がひとつのきっかけになって、つぎつぎに空白は埋められ、凍っていた時間が解き放たれる。そこに一つの世界がよみがえり、短編が完成される。」

子供の頃から、どんな小説を読んでも、とるにたらないような、物語の筋とは直接関係がないような細部に惹き付けられる。部屋の窓から何が見えるか、登場人物の飲むコーヒーカップに柄はついているか、あるいはそのクローゼットが何の木材で出来ているか、 等々。 
それらは何かの伏線であってはならない、むしろそれらは直接に物語の筋に関与していないからこそ、そこに読み手への解釈の余地が生まれる。きっといつも好きな小説を説明しようとして、うまくいかないのは、自分の好む小説が本質的にそういうありようをしているからなんだろうなとアップダイクを読んでかんがえた。