デザインをさせてもらった友人の写真集 "MAYBE AMERICANS" が
完成してほどなく、近所の古本屋で何気なく買った
リービ秀雄という作家の「アイデンティティーズ」という本を読みはじめた。
リービ秀雄という人は「純粋な」アメリカ人でありながら、
母語ではない日本語で、小説やエッセイを執筆する作家である。
彼は、自身の間借りする東京の部屋について、本の中で以下のように書く。
「ガラス戸の中の、ふすまの奥の江戸間の八畳にいることによって、
ぼく自身にも『国際化』するという逆説的な自由が与えられたのかもしれない。
『国際化』することによって、ぼくも、たくさんの屈折を経て、多少は、
日本の現代人になりえたかもしれない。よくも悪くも。
しかし、この部屋の中で、そんな『アイデンティティーの到達点』について
考えることは、実はめったにないのである。
もしかしたら、八畳の部屋自体は、そんな結論へ急ぐような
心のあわただしい動きをふさいでいるのかもしれない。
yesもなくnoもなく、無限で豊かなmaybeの誕生を、この部屋自体が
可能にしているし、そのmaybeをうながしているのかもしれない。」
アメリカ人であるリービ秀雄が東京の江戸間の八畳の部屋で感じていたこと、
わたしが友人の撮影した "MAYBE AMERICANS" の、
一連の写真をみたときに感じたこと、
それから写真集におさめられた、日本人である友人の、
英語で書かれたテキストを読んだときに感じたことは、
きっと、とても近い場所にある。
ふいに知らない誰かと道路越しに目が合うような、
それくらいさりげない一瞬の中に閉じ込められた
「かもしれない」ことの豊かさが、写真の表面に宿されている。
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