some records of a nondescript landscape / architecture of greatness.
Saturday, December 3, 2016
Thomas Ruff's Enormous Portraits
トーマス・ルフの巨大なポートレイトを見たとき感じたのは、
胃の一瞬浮くような奇妙な恐怖感だったと思う。
それは、自分が知っていると思っていた誰かが、
実は自分の考えていた人物とは違った、というような感じに似ている。
キャプションに、ポートレートがあのサイズになったことで、
人はこれが写っている誰々であるということよりも、
それが写真、つまり画像であるということを意識するようになったとあった。
けれど、逆にわたしにはあれらのポートレートが、
それでもなお人間であることから完全に離れきっていないところに、
むしろその本質があるように思える。
あれらは画像でありながら、わたしたちはその中の人物たちを
一枚の画像の中の風景や静物だというように、
完全に対象として客観視することができない。
にもかかわらず、逆に自分の知っている誰かであるとrelateするには、
あれらはあまりにも恐ろしく巨大で、よそよそしい。
つまり、人間であることと画像であることの狭間からわたしたちを見つめている、
その視線になんともいえない居心地の悪さというか、
ある種の気まずさがあって、それに嫌でも対峙させられる。
自分の家族や友人、あるいは自分自身があのようなプリントになって並んだら
きっとこれは私あるいは私の知っている誰かではない、と否定したくなる。
けれど同時に、あれらは明瞭すぎるほど明瞭に、身も蓋もないくらい、
あまりにもわたしたち自身としてそこにいる。
ポートレート写真を見るとき、おそらく私たちは無意識のうちに、
(たとえその人物がどれだけ無表情で、何も読み取ることができなくても)
その中にうつされた人々の内面を想像し、その物語に触れている。
そのようにして、わたしたちは写真を規定し対象との関係を切り結ぶ。
でも、あの巨大な証明写真のような人物を前に、
わたしたちはそれらを規定する術を持たない。
ルフのポートレートは、見る者に、それらを客観的対象としてつきはなすことも、
逆に主体として中に入り込むことも、そのどちらもさせない。
あれらのポートレートの前に、見る者はただ宙ぶらりんの状態になる。
でもだからこそ、わたしはあのポートレートをずっと見続けてしまったような気がする。
あの室内写真のシリーズにしても同様で、
ずっと見ていると、一見よくある部屋の一角が、妙にグロテスクなものに見えてくる。
キャプションには、ルフがニューカラーを参照したとあったけれど、
わたしにはあれらはニューカラー的な写真と、
相似でありながら対照的なものに思えた。
例えばショアやエグルストンの撮影した室内写真や
あるいはホッパーの描く部屋の絵に触れるとき、
わたしたちはそれらの部屋を実際には知らないにも関わらず、
なぜかそれらの部屋を既に知っている、とありありと感覚させられる。
全く人物がいないにもかかわらず、そこにはかつてわたしたちが居たことがあるという、
確信めいた実感がある。
でもルフの室内写真からはむしろ見慣れたはずの部屋が
実はものすごく精巧につくられた別の部屋だったというような、
奇妙なよそよそしさを感じる。
うまく説明できないけれど、どれも人間がいそうでいない、妙なぎこちなさがある。
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