Tuesday, November 27, 2018

memorandom for Richard Misrach


「人間にとっての自然と技術(人工)は、なかなか分割しきれるものでもない。植林というどこかの誰かがつくった風景も、出会い方によっては、かけがえのない自然になる」
──荒木優太「偶然を語る意志」(DISCO vol.2)

リチャード・ミズラックの《Desert Cantos》のレイナー・バンハム(Reyner Banham)による前文は、このようにして始まる。
"The desert that Richard Misrach presents here is the other desert. Not the pure unsullied wilderness 'Where god is and Man is not,'"...
まさにこの点に、わたしがこんなにもアメリカの風景に惹かれる理由があるのだと思う。
建築に興味があるのではなく、ある建築がある時間を経て自然の一部、つまり風景へと返される、その過程にこそ興味がある。

Sunday, November 25, 2018

memorandum for the essay found at Yamanakako


「牛腸はさらに言う。『拡散された日常の表層の背後に、時として、人間存在の不可解な影のよぎりをひきずる。その〈かげり〉は、言葉の壁にからまり、漠とした広がりの中空に堆積し、謎解きの回答留保のまま、この日常という不透明な影の中で増殖しつづける生き物のようである』と。影をひきずり、〈かげり〉を受けとめつつ『いざる』こと。『往来のきわで』いざることによって、『見慣れた』街は見慣れない街になっていく。『見慣れたひと』がいないのと同様に『見慣れた日々』なんてありえない。日常の絶え間ない反復のなかで平穏を保つには、どこかで、しずかにきしんでいく不安の影をおしとどめるほかないのだ。
──堀江敏幸 「存在の「いざり」について」(特集 写真家・牛腸茂雄)

昨年の秋にこの堀江氏の文章を山中湖の友人の別荘で見つけて、気に入ってその場で携帯で撮影し保存したのをすっかり忘れたままになっていたのを最近になってふと発見した。少し前に「寝ても覚めても」という映画を見て、なんだか分かるような分からないような映画だと思っていたところに、偶然にもこの文章がその主題を語っているように思われた。

Sunday, October 14, 2018

Shono Junzo's birthhouse




「家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりついている守宮(やもり)のようなものだ。それは何時からと云うことなしに、そこにいる。その姿は不吉で油断がならない。しかし、それは恰(あたか)も家屋の内部の調度品の一つであるかの如く、そこにいるので、つい人々は馴れてしまう。……」
( 庄野潤三「舞踏」)

Sunday, February 4, 2018

Jonas Mekas "this side of paradise"




「……Memoryこそジョナスがとくによく口にすることばではなかったか。いかにも嬉しそうに、面白がってRを下の先で転がしながら」
記憶は映像の中で重なりながら往来する
浜辺の映像のほとんど何も見えなくなる一瞬、ふいに子どもの頃見た海がよぎる

Tuesday, December 12, 2017


I used to think that death is an instantaneous moment just like a tic mark in a scale, however after these years, I started to notice that death is not very much like something described with past tense, but rather with the present perfect tense. It is not simply an incident, but it points continuous period of time, ceaselessly being reformed as something fresh.

人が死ぬことは定規の目盛りみたいに点的な出来事だとかつて思っていたけれど、実際にはそれは過去形ではなく現在完了でかたられるものだ。それはあるひとつの出来事ではなく、実際には継続的な時間の流れのなかでその時々に常に新鮮なものとして刷新されるongoingなものだということに気づく。